誰もが異なる内なる力(才能、能力、特性、得手不得手)持ち、その偉大なる力と和を以て幸と為す
諸行無常。万物は常に移り変わり留まり続けることはない。外部環境は変わる。
しかし、外部環境に振り回されてはいけない軸は自分自身。
それぞれ個人が持っている内なる力。それは元々遺伝子的に体に組み込まれている先天的能力かもしれないし、それぞれが生きてきた人生過程で経験的に学習し、身につけてきた後天的能力かもしれない。
それぞれが持つ内なる力、能力を存分に発揮し、そのアウトプットを社会と共有する。
私たちはクライアントの外部環境変化を認識し、理解し、考え、共に目標を創出し達成のために伴走します。
しかし、それだけでは足りません。
クライアントを含めた一緒に働くチームメンバーそれぞれが持っている能力を存分に発揮し、それぞれの「やりたい」「溢れ出る思い」にも着目します。
結果的にクライアントのベネフィットにつながるようにお互いが理解し合うまで議論を重ねます。
ただ何となくアサインされたプロジェクトとして取り組むだけではなく、当然のようにメンバー全員が自ら我ごとのように取り組む。
自分を押し殺して進めるプロジェクトよりも誰もが心の奥底にある「やりたい」を出力してから取り組むと取り組まないとでは、そのアウトプットの差に大きな違いが生まれることは言うまでも無いでしょう。
我慢が不要な時代
私たち日本人(だけでは無いと思うが)は我慢を美徳とする傾向がある。我慢した先に得たい結果が得られると思う節がある。
それは、これまでそのように家庭、学校、地域で言い伝えられ道徳という名の下に教育されてきた背景もあると思いますが、必ずしも現代2020年代にマッチしている考え方とは限らないと思う。
必要な知識やマインドセットも諸行無常。移り行き変わる。
当然、基礎知識は必要だが、それよりもその人なりの何かを表現、発信して他者に感動を与えることの方が大事になってきている。
好きでやっていることは我慢とは言わない。
我慢とは、論理的、技術的観点から考えてみても明らかに不自然。それは思い切って止めてしまえばいい。
例えば、子供時代に皆が強要された体育座り。
昔は誰もが疑うことなく当たり前に学校の体育館や校庭での座り方だったが、今ではさまざまな体調不良を引き起こす座り方として子供への悪影響が懸念されており見直されている。(内臓、肺、胃への圧迫や腰への高負荷など)
海外諸諸国の学校では体育座りや前ならえなど見たことも無い。
今は、「おかしいと思います。その理由は」と言える時代。
今は、「私はこれがやりたいんです。なぜなら」と言える時代。
何も遠慮することはない。
あなたの持っている才能はいつでも社会に共有できる。
むしろ、この世に生を受けたからには、あなたの持つ唯一無二の能力や才能を社会に共有しないことの方が人類にとって大きな損失なのです。
内なる声に従い、今置かれている場所でもやりたいことをやろう。
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